タイで暮らしていると、日本人の感覚から見ると「親子の距離が近いな」と感じる場面があります。
特に、母と息子の関係です。
日本語なら、つい「マザコン」という便利な言葉で片づけたくなるかもしれません。
でも、タイの母と息子の関係は、単なる甘えや依存だけでは説明できないように思います。
「タイ人男性は母に弱い」は本当か
もちろん、人によります。 タイ人男性がみんな母親にべったり、などと言うつもりはありません。
ただ、日本人から見ると、タイでは成人した息子と母親の距離がかなり近く見えることがあります。 母親の意見が強い。 母親に頻繁に連絡する。 母親への仕送りや生活支援を当然のように考える。 結婚後も、母親の存在感がなかなか小さくならない。
こうした場面に出会うと、日本人はつい「マザコン」という言葉を使いたくなります。 けれど、その言葉は少し雑です。
日本語の「マザコン」には、どこか未成熟、甘え、自立できていない、という響きがあります。 しかしタイの場合、母との距離の近さには、家族扶養、親孝行、仏教的な功徳、そして老後の支えという複数の意味が重なっています。
つまり、母に弱いのではなく、母を背負っている のかもしれません。
日本では、親子は少しずつ別々の人生になる
日本でも、親子のつながりが弱いわけではありません。 親の介護を子どもが担うこともありますし、実家への支援や帰省、同居もあります。
ただ、日本では一般に、子どもが大人になるにつれて「親から独立する」ことがよいこととして語られやすいように思います。 大学進学、就職、結婚、転勤。 それぞれの段階で、親と子の生活は少しずつ分かれていきます。
さらに日本には介護保険制度があります。 もちろん家族介護は今も大きな役割を持っていますが、少なくとも制度の建前としては、親の老後を家族だけで抱え込まず、社会的なサービスで支える方向へ進んできました。
だから日本では、親子は愛情でつながりながらも、生活単位としてはだんだん別々になっていきやすい。 親は子どもの独立を願い、子どもも「親とは別の人生を作る」ことを自然な成長として受け止めます。
ところがタイでは、この距離感が少し違って見えます。
タイでは、子どもは大人になっても家族の一部であり続ける
タイ社会では、親と成人した子どもの関係が、かなり長く生活の単位として残りやすいように見えます。
親は子を育てる。
子は大人になったら親を支える。
祖父母は孫の面倒を見る。
働きに出た子どもは実家へ仕送りをする。
家族の中で、お金、世話、住まい、子育てが行き来する。
こうした相互扶助は、タイでは今もかなり強い現実感を持っています。 高齢の親にとって、成人した子どもは老後の大切な支えです。 子どもに面倒を見てもらうことを、特別なわがままではなく、家族の自然な流れとして受け止めているように見えることもあります。
もちろん、タイでも都市化、少子化、出稼ぎ、核家族化は進んでいます。 親世代の中にも、「子どもに迷惑をかけたくない」と考える人はいます。 それでも、いざ困ったときの最後の支えは家族であり、特に子どもである、という感覚はまだ強く残っています。
この感覚が、日本人には少し重く見えることがあります。 でもタイ社会の中では、それは必ずしも異常な依存ではなく、家族の基本的なかたちなのです。
タイでは、子どもが大人になっても親を支え続けることが「親孝行」に見えやすい。
息子の出家は、母に功徳を届ける
ここまでは家族扶養の話です。 しかし、タイの母と息子の関係を考えるとき、もう一つ大きな要素があります。
それが、出家です。
タイでは、男性が一時的に出家することがあります。 すべての男性が必ず出家するわけではありませんし、現代では形も変わってきています。 それでも、息子の出家は、家族にとって大きな意味を持つ出来事として語られてきました。
特に重要なのは、息子の出家によって得られる功徳が、両親、とりわけ母に届くと考えられてきたことです。
タイ語で功徳は ブン と呼ばれます。 タンブン、つまり功徳を積むことは、タイの在家仏教を理解するうえで欠かせない言葉です。
息子が袈裟をまとう。
僧として修行する。
その姿を母が見る。
母は、息子の出家を通じて大きなブンを得る。
ここで息子は、単なる子どもではありません。 母の今生の喜びだけでなく、母の来世への願いまで運ぶ存在になります。
そう考えると、母にとって息子は、かわいい子どもであると同時に、宗教的な希望でもあるわけです。
女性が正式に出家しにくい社会で、息子の意味はさらに重くなる
前回の記事で見たように、タイでは女性が男性僧と同じように正式な比丘尼として認められる道が、長いあいだ非常に狭く置かれてきました。
女性修行者であるメーチーはいます。 白衣をまとい、戒を守り、寺院や地域の仏教実践を支える女性たちはいます。
しかし、タイの公式な僧団制度の中では、男性僧と対になる正式な比丘尼としては認められにくい。 ここに、女性の宗教的地位をめぐる大きな壁があります。
この構造の中で、母にとって息子の出家は特別な意味を持ちます。
自分自身が正式な僧侶として出家する道は狭い。
しかし、息子が出家すれば、その功徳は母にも届く。
母は、息子の袈裟を通じて、自分では届きにくい宗教的な高みに触れる。
かなり強い言い方をすれば、息子は母の功徳の回路になるのです。
ここまで来ると、「タイ人男性は母に弱い」という話は、単なる性格の問題ではなくなります。
息子は、母の愛情を受ける存在であり、母の老後を支える存在であり、さらに母に功徳を届ける存在でもある。 母子関係に宗教的な重みが乗るのは、ある意味で自然なことなのかもしれません。
- ブン:功徳、徳分、よい因縁のようなもの。
- タンブン:功徳を積む行為。布施、寄進、善行など。
- メーチー:白衣を着た女性修行者。タイ社会では広く見られるが、僧団制度上は比丘尼とは別の存在。
- 比丘尼:正式な女性出家者。タイでは公式制度上の承認をめぐって長く議論がある。
ただし、娘もとても重要である
ここで誤解してはいけないのは、「タイでは息子だけが大事」という話ではないことです。
むしろ、生活の現場では娘の役割は非常に大きいです。 親の近くにいる。 親の世話をする。 家計を支える。 孫の面倒を見てもらう。 実家との関係を保つ。 病気や介護の場面で動く。
こうした日常的な支えでは、娘が非常に重要な存在になることが多いのです。
タイの家族を見ていると、娘が実家の中心的な支えになっている場面は珍しくありません。 特に親の老後や介護、家計の調整、親族ネットワークの維持という点では、娘の存在感はとても大きい。
だから、この記事で言いたいのは「息子だけが特別」ということではありません。
むしろ、こう整理した方がよいと思います。
功徳を届ける息子。
タイの親子関係には、この二つの役割が重なっている。
もちろん、現実の家族はもっと多様です。 娘が功徳を積むこともありますし、息子が親の介護を担うこともあります。 都市部と地方、階層、家族構成、個人の価値観によっても違います。
それでも、タイの母と息子の関係を考えるとき、息子の一時出家が母に功徳をもたらすという宗教的構造は、見落としにくい大きな手がかりになります。
「母に弱い」のではなく、「母を運んでいる」
日本人から見ると、タイの母と息子の距離は近く見えます。 ときには近すぎるように見えるかもしれません。
でも、その背景には、親子の独立を重んじる日本的な感覚とは違う家族観があります。
子どもは大人になっても、親の人生から完全には離れない。 親もまた、子どもが自分を支えてくれることを自然な期待として持つ。 そして息子は、母に功徳を届ける存在として、宗教的にも特別な意味を帯びる。
そう考えると、タイの母子関係は、単なる「マザコン」では片づけられません。
母親が息子に執着している、というより、母の人生、老後、功徳、来世への願いが、息子の人生と絡み合っている。 息子もまた、母を切り離して自分だけの人生を作るというより、母の期待や願いをどこかで背負い続ける。
それは重いと言えば重い。 でも、温かいと言えば温かい。
タイの母と息子の関係には、少し息苦しいほどの近さと、少し泣けるほどのやさしさが、同居しているように見えます。
日本人が見落としやすい、家族と功徳の接着剤
日本人がタイの親子関係を見るとき、つい「自立しているか」「依存しているか」という物差しで見てしまいがちです。
しかしタイでは、親子の関係をつなぐ接着剤が少し違います。
お金。
介護。
子育て。
親孝行。
タンブン。
息子の出家。
母に届く功徳。
これらがばらばらではなく、ひとつの家族の中でつながっています。
だから、タイの母と息子を考えるときには、「近すぎる親子」と見るだけでは足りません。 そこには、家族を支える経済の回路と、母に功徳を届ける宗教の回路が重なっています。
日本では、親子は愛情でつながりながらも、それぞれ別々の人生へ向かいやすい。 タイでは、親子は大人になっても、生活と功徳の中でつながり続けやすい。
この違いを意識すると、タイ人男性が母に弱く見える理由も、少し違って見えてきます。
息子は、母の愛情を受ける存在であると同時に、母の老後、母の功徳、母の来世への願いを運ぶ存在でもあった。
そう考えると、「マザコン」という一言ではこぼれ落ちてしまう、タイ家族の深い構造が見えてくるのです。
この記事は、タイ人男性やタイの母親を一括りにするものではありません。 タイ社会で見られる親子扶養、母子関係、息子の一時出家、女性出家制度の制約をもとに、日本人の目に映る「母と息子の距離の近さ」を考える個人的コラムです。 家族の形は地域、階層、世代、個人によって大きく異なります。
- Charles F. Keyes, “Mother or Mistress but Never a Monk: Buddhist Notions of Female Gender in Rural Thailand.”
- A. Thomas Kirsch, “Complexity in the Thai Religious System: An Interpretation.”
- Monica Lindberg Falk, Making Fields of Merit: Buddhist Female Ascetics and Gendered Orders in Thailand.
- John Knodel and Napaporn Chayovan, “Intergenerational Relationships and Family Care and Support for Thai Elderly.”
- John Knodel ほか, “The Future of Family Support for Thai Elderly: Views of the Populace.”
- PIER Discussion Paper, “Altruistic care for the elderly: A gender perspective.”
- 日本の介護保険制度と家族介護に関する研究として、Hanaoka & Norton、Horioka ほかの研究を参照。
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